「セイレーン」

です。

ひとりで聴いてひとりで楽しむのに向いている曲でしょう。内容についてつべこべいうのはかえって興をそぐかと思います。

それでも蛇足的に付け加えるなら、自分の追求する「良さ」というものがある程度提示できたかなと思う仕上がりにはなっています。まあ、成否はどうであれ、ですが。

ともあれ、秋の夜長、憂鬱な音楽をどうぞお楽しみくださいませ。

作曲の仕方、あるいは構成の話 その2

前回:作曲の仕方、あるいは構成の話 その1

まとまりをどうやって持たせるのか。全体の統一感について。

まとまり:それは似ていること

Q.音楽が小さい部品からできるのはわかった。でも、なんだか全体がうまくまとまらないんだけど…?

A.セクション同士の関連を意識しよう。

論理的に考えれば、セクション間の関係は、以下の二通りしかない。

似ているのか、似ていないのか、だ。

似ている:静的(スタティック)でまとまりがあるがともすれば単調。

似ていない:動的(ダイナミック)で勢いがあるが、ともすればとりとめがない。

実際、似ている似ていないは程度問題なのだが、まあとりあえず簡単な二分法で考えてみる。全体をまとめるためには、似ているセクションで構成していく必要がある。まとめずにただ流れていくような曲を作るためには、似ていないセクションで曲を構成していくのが良い。

基本的には似ているセクションで曲を構成していくと、全体はうまくまとまる

作曲を始めて最初のうちは、常に新しいセクションを作っていかないといけないという強迫観念に駆られるけれども、真理はその逆である。繰り返しには魔力がある。繰り返すことを恐れてはならない。
マイムマイムみたいなフォークダンスが頭に残りやすいように、繰り返しというのは頭に入ってきやすいし、聴く側も理解しやすい。別に繰り返すべき、という話ではないが頭の片隅に置いておくこと。

・類似性の要素

で、似ているとか似ていないとかの判断はどこから来るのか?

音楽というのはいくつかの要素に分けられる。ここでは普通のウタモノについて考えてみよう:

メロディ(ボーカル)・伴奏(コード・リズム・楽器構成・伴奏型・etc.)・その他(歌詞・テンポ等)

2つのセクションについて、その関係は

メロディもコードも楽器構成も伴奏型も同じ: 類似性大(というか「同じ」)

メロディもコードも楽器構成も伴奏型も違う: 類似性ゼロ(まったく似ていない)

といえる。メロディだけ違う、楽器構成だけ違う、とかある要素だけ同じ/違う場合はちょうど中間の類似性ということになる。ようするに同じ要素が多いほど似ているし、違う要素が多いほど似ていない、というだけのことである。

だから、メロディが違っても、同じ楽器構成・同じリズムというだけでもある程度のまとまりが生まれたりする。また、メロディがまったく同じでも、楽器構成を変えていくだけで人を魅了してしまったりする。

後者の良い例がモーリス・ラヴェルの「ボレロ」。

これなんか繰り返しの魔力の典型。

まったく同じセクションだけ続いても飽きてしまうし、まったく違うセクションばかり続いても脈絡がない。同じものをベースにしてまとまりを作りつつ、違う要素を取り入れて、アクセントを加えていく。

その「変化」の部分に焦点を当てているのが、クラシックの変奏曲という形式。ある主題(テーマ)の、メロディや色々な要素を様々に変えて変奏していく。多種多様に展開しつつも、曲全体のまとまりがあるのは、テーマの面影をちゃんと残しているから。

変奏曲で有名なのはたとえばこれ。

モーツァルト「きらきら星変奏曲」(KV.265)

この曲のまとまりは、この曲のすべてのセクションが「きらきら星」の主題をもとに作ることによって生まれているわけ。

なんとなくまとめると、

楽曲のまとまり、というのは、どれだけの要素が同じかによって決まる。

まとまりを求めたいのなら、同じ伴奏や似たメロディ、コードを使うといい。この前の記事のように、メロディの材料を使うという手もある(cf.音楽のでき方(動機について) )。同じ物を何度も登場させることが、まとまりを産み出す基本である。

こうやって、全体の統一感を形成していくわけである。

次のステップ:

Q.何となくまとまったのはいいんだけど、単調すぎるような…?

続く予定。

作曲の仕方、あるいは構成の話 その1

作曲してみたいんだけど、何から始めたらいい?

ある程度ものごとが複雑になってきたら「何から始めるべきか?」という問題が深刻味を帯びてくる。たとえば僕も数学についてもっと知りたいな-、とか常々思うわけだけど、じゃあ何から手をつければいいの? という気持ちになって、なかなか手が着かない。そうして、何も始められないまま、時間が過ぎていく。

作曲にもそういうところがあって、最終的な完成品に近付くまでに何が必要なのか、ってのは実際にさわってみないとわからない。何から始めてもいいといわれると、かえって何もできない。楽典を買ってみてもそこに曲の作り方は書いていないわけで、それを見ても曲が作れるわけじゃない。作曲本を読んでも音楽理論について滔々と語られても、それをどう活かせばいいのかよくわからないエトセトラエトセトラ。まあ、いきなりそんな突っ込んだ話をされても…ってーのが正直なところ。

ここでは、ちょっとそういう細かい技術的な話ではないことをしたいと思う。まあ、細かいオタクっぽい話はもっと好きな人がたくさんいるので、どうぞそちらを参照されたい。

基礎:音楽は部分からできている

Q.音楽なんて、あんなに複雑なもの、到底作れる気がしないよ!

A.分解して考えてみよう。

まず理解していただきたいのは、「音楽はいくつかの部分からできている」ということ。ちょうど、普通の映画が色々なシーンからできているように、音楽も色々な部分からできている。

ある程度大きく分割できるまとまりを、ここでは「セクション」というふうに呼ぶことにしよう(ちょっと曖昧なのは、フレーズを単位にしたかったりもう少し大きなまとまりを単位にしたい場合と両方あるから)。

たいていの曲はある程度のおおきなまとまりで分割することができる。

たとえば、ポップスでも、AメロやらBメロやらサビとかいう。こいつは歌のメロディを基準に曲を分割したもので、ざっくり説明すると主なメロディ(フレーズ)が三つあって、ひとつめがAメロ、二つ目がBメロ、一番の山場がサビ(Cメロ)。

典型的なポップスによく見られる形式に次のようなものがある。

Aメロ – Bメロ – サビ – 間奏 – Aメロ – Bメロ – サビ – サビ – 終結部

出典:wikipedia

このように分割することが可能なのである。

まあ、基本原理はこれだ:

楽曲はいくつかのセクションに分けられる

音楽と文学というのは親和性が高いので、引き合いに出しやすいのだけれども、基本的に文章というのはいくつかの文からなっている。読点も句点もない文章ってーのはなかなかない。音楽も要はそういうことである。

で、これを逆に考えればこういうことになる:

楽曲はセクションごとに作られ、それらをうまく配置することで構成されている

文章は一文一文の組み合わせである。で、それらをうまく並べることで良い文章になるわけだ。ほとんどの複雑な作品も、基本的には単純な部分の組み合わせから構成されている。ちょうど、0と1の組み合わせによって色々なものが表現されているように。

さて、音楽を作る技術…作曲法というのは、それぞれ文章でいうと次の技術に相当する。

文の作り方(文法・語法):狭義の作曲法…コード・スケール・etc.

文の並べ方(文章表現):楽式論

普段作曲講座~とかで述べられているのは基本的に前者のコード進行法やら、スケールがどうたらとか。後者の楽式論というのは楽曲の構造、つまりAメロ、Bメロ…とかそういうのの並べ方についての体系のこと(皆ある程度自分なりにできるのであまり話題になることはない)。

当面は、作曲とは

フレーズを作る→組み合わせる→セクションができる

セクションを作る→組み合わせる→曲ができる

というプロセスであるという理解で良いと思う。もちろんこの理解はある意味で正しいけれど不十分である。それについては後々説明する予定。

で、これがさらに進むと、

曲ができる→曲を組み合わせる→より大きな作品(多楽章の曲・組曲)!

というように大きな作品ができるわけだ。

まとめれば、原則は小さな部品を組み合わせて大きな作品を作ること

だからとりあえず何をすればわからない人は、とりあえず、8小節とか、16小節とかぐらいの小さな曲やフレーズをたくさん作ってみるのがいいと思う。そういう「小さな」音楽をたくさん作って、文の作り方を練習するのが良いだろう。

次のステップ:

Q.音楽が小さい部品からできるのはわかった。でも、なんだか全体がうまくまとまらないんだけど…?

続く予定。

インプットと幸福

特に落としどころのない話をだらだらと。

小説にしろ、音楽にしろ、ある程度以上の数の作品をまともに受け取っていれば、それらの価値が相対化されてくる。

はじめのうちは、「これはあれよりも『好き』」だったのが、「これはあれよりも『良い』」になってくる(ガチガチの相対主義なら「作品に善し悪しなんて存在しない」だなんてひどい言いがかりをつけてくるかもしれないので、「どこそこの部分が」と但し書きをつける必要があるかもしれないが)。つまりは、ある程度客観的な評価が作品に対してできるようになるわけだ。

そうすると、あー、この作品は底が浅いなあ、だなんていう感覚がわかってくる。底が浅いというのは、能力やら思慮が足りてないということだ(僕としては圧倒的に「思慮の足りなさ」という意味で使うことが多いように思う)。

作る側としては、自分が「好き」だとか「かっこいい」だとか「深い」とか思うものを詰め込むわけで、作品にはいわば自分の思う「良さ」というのが凝縮されているはずだ。だから、底が浅いという評価は、作者の求める「良さ」というのがその程度であるということを意味する。要は、誰でも知っている知識をしたり顔で紹介するみたいな、誰も凄いとも良いとも思わないものを「凄いだろ!」「良いだろ!」って大声で主張しているに等しい。

じゃあ底が浅いという状態を脱却するにはどうすればいいのか、と考えると、自分の求める「良さ」を洗練化していけばいいという話になる。そこで手っ取り早いのは、インプットを増やすこと。つまりは、自分の中の批評家(=受け手)を育てるということ。そうすれば、最初に述べたように、価値を相対化し、ある程度客観的なレベルで良さというものを考えることができる。

もちろん、自分でひたすら試行錯誤して「良さ」を追求するという選択肢もある。だけれど、それは何より手間がかかるし、せっかく頑張って見つけた「良さ」というのも実は月並みで、単なる「車輪の再発明」かもしれない(wikipedia)。だから、自分で探すことそれ自体が目的でないのなら、素直に既存の作品に触れ先人の知恵に学ぶことの方が有用である。ニュートン先生曰く、「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」。

ただ、インプットを増やすことも良いことばかりではない。「良さ」だけが先行してもなかなかつらいものがあるのだ。つまり、「自分で『良い』と思える水準のものを自分で作れない」という事態に陥りやすい。そうすると、創作が停滞してしまう(そうならないためにはおそらく批評家を飼い慣らしていく必要があるのだと思うが、その術が自分にもまだわからないので誰かいい案があったら是非教えていただきたい)。

しかしそれに比べて、井の中の蛙でいるままでいるのは実に楽である。他人の目を気にすることもなく、自分の求める「良さ」に疑問を抱くこともなく、創作し続けていられる。

そこは結構本質的なトレードオフなのかもしれない。クオリティをいったん追求し始めるようになると、瞬間の幸福の強度は上がるかもしれないが、平均的な幸福の量は減る。クオリティをあきらめれば、平均的な幸福の量は多くなるかもしれないが、かわりに格別な作品を味わうこともできない。感受性の高さと平均的な幸福量はトレードオフの関係にある。

その辺は食べ物に似ていて、おいしさというものを追求しなければどんな食べ物でもそこそこ食えるのと同じで、いったんおいしさを追求し出すと、格別のおいしさというものを理解できるかわりに、「まずくて食えない」という水準もできてくる。一方、おいしさというものを追求しなければどんな食べ物でもそこそこ食えて適当においしい。しかしそれは限定された楽しみに過ぎない。

あんまり意識はしていないけど、味覚も鍛えられて作られるものだ。味覚も文化的な所産なので、ある程度の水準以上の「おいしさ」を味わうには、相応の学習が必要である。微妙な差異が感じ取れるようになって、初めてそのおいしさがわかる。

たとえば僕はアルコールというものをほとんど飲めないので、酒の味はわからない。そうすると、ある程度以上の飲み手ならわかる差異がわからなかったりする。あるいは、違いがあることはわかっても、どちらが「良い」かどころか、「好き」かすらわからない。違いがわからないから、安酒だろうと高級酒だろうと与える快楽の幅はさしてかわらない。反対に、違いのわかる人にとっては、一滴も飲むことが耐えられないようなものが存在するかわりに、うまい酒を僕よりも楽しめるわけである。

わかる、ということは喜びも深いが絶望もまた深いってのはどうしようもなく紋切り型で陳腐ないいぐさだけれども、ある種の真理を突いている(そういや、岡崎二郎の短篇で「最高の晩餐」ってのがありましたね。ここで紹介する時点で半分ネタバレみたいなものだけど、あしからず)

わからないものを放置するのは楽だし、事実生きる上では多くの「わからない」を放置せざるをえない。第一、人間の時間は有限なのだ。それに一方で、「わかり過ぎる」というのもかえってつらいことになるかもしれない。

だから、一概にどうすればよいという解は出てこない。インプットを単純に増やせば良いという話ではないので、「何をどの程度インプットすべきか」、ということに関してはまた個別に考える必要があるんだろう。

結局のところ、純粋な受け手でいる間は自分でその境界線を決めるしかないのだろう。身も蓋もないけれど。極端な話、まずいファストフードだけ食べ比べて、「○○の××バーガーは至高」、って勝手に思っていて別に差し支えないわけである。どんなにおぞましいことであれ、自己完結している分には何をどう思おうと自由なのだし。

でも、ひとたび送り手の側に回るならばそうじゃない、と思いたい。ただ、その話を始めると長くなりそうなので、今日はこの辺で。